さる2012年7月7日(土)に、桜美林大学四谷キャンパスに、南山大学人類学研究所非常勤研究員の山崎剛さんをお招きして、「1からじゃなく、0からはじめよう 探求方法の探求」というタイトルで、お話をうかがいました。
1.山崎さんの話の概要です。
学会での発表や研究会での自己紹介などを聞いていると、人類学というひとつの学問があって、そのなかでたくさんのテーマが扱われてるという印象を受けますが、それは間違っていて、実際には、たくさんの人類学があるのではないでしょうか。学会や研究会の場面では、私たちは語られるテーマばかりに注意を向けてしまって、他方で、多様な人類学のあり方には、なかなか注意が向かわないのです。しかし、好奇心旺盛な人類学者はみな、研究会やフィールドワークの場面以外でも、雑務と思える仕事をこなしてるときや、家族とちょっとおしゃべりしてるときでさえも、どこか人類学してるところがあるのではないでしょうか。そういうありようもまた人類学なのです。そうであるならば、そうした人類学には、ふだんあまり意識しないぶんだけ、たくさんの可能性が潜んでいるんじゃないだろうかと思えます。
「帝国医療」にせよ、「震災の人類学」にせよ、もしそれらが研究のテーマにすぎない、つまり、たくさんの人類学のうちの部分にすぎないのだとすれば、そのどれも人類学の「内側」のゲームです。私たちは、むしろ、その「外側」で、私たちはどんなふうに人類学を使ったゲームをやっているのかを考えてみなければなりません。人類学を考えるとき、なぜ私たちは、大学や学会などを前提にしてしまうのでしょうか。0 から考えてみましょう。今やっている人類学ではない人類学だってありえるはずです。創刊されたばかりの頃の学術雑誌『MAN』を読んでいると、なんだかわからない賑わいが感じられるのです。プロェッショナルと素人の混在がよいことだと一概には言えませんが、プロフェッショナルも素人も無かった時代にあったのは、もっと違う人類学になれたかもしれない、たくさんのモヤモヤした可能性だったのかもしれません。ひとつの人類学を信じて、学会の動向に注目しながら、マニアックな研究テーマをひたすら追いかけていた大学院生時代を経て、博物館という場所に務めるようになって痛感するようになったのは、大学の人類学だけじゃうまくいかないのではないかということでした。博物館で展覧会を準備しなければならなくなったとき、たいていの人は、まず最初に標本を置いて、それを説明するキャプションを用意するか、あるいは、ある情報を記したキャプションを作って、その補足として標本を置くかするのだと思われます。私が展覧会にかかわっていて思ったのは、ほとんどのことが、「知識」を中心に考えすぎられているということでした。私たちは、ついつい「知識」をつうじてなんでもコントロールしようとするのですが、そんなことをすると大事なものを捉えそこなってしまうのではないでしょうか。そんなことは、人類学者なら誰でも知っているはずのことです。
では、どうすれば、このような捉えどころのない知識ではない「何か」を指し示したり、発生させたりできるのでしょうか。ひとつの案は、教育を「知識」の伝達として考えるのではなく、驚いたり、混乱したりの「経験」から考えてみることで、「教育のような研究/ 研究のような教育」をやっているのだと考えてみることです。
「道具」について考えてみましょう。石が紙の上に置かれているという一見すると何の変哲もない事象では、石が紙が風で飛んで行かないための道具になっています。石は、対象に投げつけることによって、武器ともなります。ケータイ電話を用いるようになって、私たちは、待ち合わせ時間と場所を詳細に決めなくなりました。ケータイ電話にはもともとそういう機能はないのであり、そうした新しい機能が効果として表われてきたのだと言えます。紙に字を書くことは、紙が破けないように字を書いているという、入力と出力がコントロールされたなかでそのつど達成されています。このように、私たちが行うことは、すなわち、知ることでもあるのです。日記には、あったことを書くのですが、日記を書くことによって、私たちはその日何があったのかを考えさせられるという、やっているのに、させられるという事態が見られます。ケータイは今やないと不便ですが、なかったときには不便を感じませんでした。その意味で、あることは、ないことの反対ではないのです。このように、私が博物館展示をつうじて学んだのは、対象の知識の伝達ではなくて、対象が何であるのかを経験を介して考えることでした。
これに対して、社会が人類学に求めていることのひとつは、地域文化のプロフェッショナルであることはまちがいないと思います。しかし、人類学にできることは、それだけでない気がします。もし、人類学が、「知識」の提供ではなく、何かの「経験」を提供できるとしたら、それは「わからない」という経験、つまり、世界に触れる経験なのではないでしょうか。多くの人は、わかりたがりで、わかることが大事だと思っているので、「わからながる」ことはほとんどしません。わからながるのは、かなり難しい技術ですが、じつはこれこそが、人類学の本質だと思ったりします。そして、その技法や経験は、社会的に見ても非常に重要な可能性を秘めているように思えるのです。
意味の外側にひろがる世界に触れ、「わからない」を経験することは、生きていることの不思議さや驚きを再発見し、生きなおすきっかけになります。そんな大きな可能性を秘めたものです。私たちは誰でも、そうした探求をすることができるし、ホモ・サピエンスの歴史は、そうした探求によって大きな変化が起こってきたと言うことができるのではないでしょうか。絵を描くことは、絵を描いたことがなかった時代には想像できないことでした。それとは反対に、私たちは、社会の外側に出るという経験をつうじて、世界を知ることができるのです。そのときわかったと言えるのではなく、わからないということが大切であるように思えます。研究や探求を、学者だけのものとせず、多くの人が、そうした活動を意識的に始めるとき、つまり、すべての人が、そうした意味での人類学者になったとき、この社会はいったいどんなふうに変わるでしょうか。
世界に触れる経験をひろげる。人類学者以外にも、すぐにわかった気にならないで、世界を探求している人たちがたくさんいます。そうした人たちはライバルというより、むしろ、活動をひろげていく上での協力者になるかもしれません。世界に触れるためには、頭だけで考えていてはダメで、手を伸ばし、そこに関わりながらやるしかありません。その意味では、「作ること」と「知ること」は異なる別の営みではなく、同じひとつの探求であると考えることもできるはずです。様々な交流を通して、他の分野で試みられている方法に接近することは、きっと人類学に
ところで、人類学は、他の学問とどう違うのでしょうか。もしかしたら、人類学は、学問と学問をつなぐ学問になれないだろうかと思ったりします。大事なのは、横並びの学問のひとつとしての人類学的わかり方ではなく、どの学問もやらない「人類学的わからない方」ではないでしょうか。それは、誰もにとっての問題でありながら、誰もが考えられたはずなのに、なぜか誰も考えようとしないできた問題を、問題として示すことなのかもしれません。私たちは、何かをやろうとすると、すぐにその何かについて考えてしまいます。何かについて考えると、それは「対象」になって、理解は深まりますが、同時に、知識生産のゲームが始まります。どれだけ知っているかのゲームとは別の、世界を味わい、世界を生きることを再創造してゆくゲームをしてゆくには、"Anthropology of" とは別の、"Anthropology with" がヒントになるはずです。ただ、個人的には、人類学のためにではなく、人類にとって意味ある技法として人類学をやっていく。ひとまずは、それでいいような気がしています。
だんだんわかってきたのは、選択肢を前にして、私たちは選択肢の上にある選択肢が見えなくなっていたのかなということです。もしかしたら、ひとつの国、ひとつの電力会社、ひとつの人類学ってけっこうあぶないのかもしれません。急いで1 から始めるのではなく、粘り強く0 から1 のあいだにとどまって、これまで考えられなかったことに気づき、いろんな人類学の可能性を探っていくことは、来るべき人類学を構想する出発点として大事なのではないでしょうか。
0 から考えて、たどりついた1 は、最初からあった1 とはまったく別の1 です。だから、1 にたどりつくだけで、じつは状況は変わり始めています。100 とか1000 とか、できるだけ多くを積み上げることが大事だと考えがちですが、積み上げない努力こそが創造的な可能性を秘めていたりするのかもしれません。
2.山崎さんの話に対しては、参加者からそのつど、質疑やいろいろな意見が出されました。
研究はあくまでも研究であり、授業は教育であるというように、研究と教育とは分離したものだと考えることもできるのですが、山崎さんの考えでは、その二つは一体化すべきであるという考えが読み取れるという意見が出されました。
山崎さんは、人類学の役割を考えるときに、テレビやインターネットなどの現代のメディアの発達を視野に入れていないように思えるという意見も出されました。
山崎さんは、人類学のアウトサイダー的な位置にいるという見方のもとに話が進められたようですが、結局、人類学に立ち戻っているという指摘がなされました。
大学の研究教育ポストに対して院生の数が激増して研究教育職に就けない人がいるという、人類学の若手をめぐる窮状のなかでの「工夫」であるという観点から、山崎さんの話を捉えることができるのではないかという意見が出されました。その工夫とは、学問のための学問ではなくて、学問の応用的な広がりなのではないかと考えることができます。
また、山崎さんの発表は、研究対象を設定し、研究会を開催して、見解を深めてゆく知識生産のゲームとしての現代の学問および研究の制度に対して、経験をつうじた発見の機会を手がかりとして、知的な喜びを目指すとする点で、学問のあり方を根源から問い直す試みではないだろうかという意見も出されました。それは、完成形を目指して、合目的的な議論をするということではなくて、事物がつくられる生成と発展のプロセスに目を向けるという点で、ティム・インゴルドの近年の議論に親和的であるという指摘もなされました。